小説『坂の上の雲』の世界を体感できる博物館「坂の上の雲ミュージアム」

坂の上の雲ミュージアム

松山市では司馬遼太郎氏の代表作のひとつ『坂の上の雲』をテーマにしたまちづくりを進めており、その中核施設となるのが「坂の上の雲ミュージアム」です。
館内には、登場人物らの直筆資料のほか、小説の描く当時の時代背景が理解できるよう、明治の日本や松山についてのパネルや映像、当時の地球儀や立体鏡などが展示されています。
4階の企画展示コーナーは、日露戦争で活躍した秋山好古・真之兄弟、正岡子規の3人の足跡やエピソードを紹介するほか、実際に主人公たちが使用したゆかりの品を展示しています。企画展のテーマは1年ごとに変わります。
建物は「司馬遼太郎記念館」(大阪府東大阪市)のデザインも手掛けた建築家、安藤忠雄氏が設計。地上4階建ての鉄筋コンクリート造りで、上から見ると三角柱の独特な外観が特徴です。
また、各階をつなぐ通路は、「青い天の一朶(いちだ)の雲を見つめながら上っていく」という小説のイメージに合わせ、なだらかな勾配のスロープになっており、その途中でガラス越しに松山城や萬翠荘などを一望することができます。博物館の展示品はもちろん、建物そのものも一見の価値ありです。
企画展示コーナー(4階) 毎年テーマを新たにした企画展を開催

そもそも坂の上の雲とは?

新聞の壁 夕刊に連載された全1,296回の小説が巨大な壁に展示されている
新聞の壁 夕刊に連載された全1,296回の小説が巨大な壁に展示されている
司馬遼太郎氏の長編歴史小説『坂の上の雲』。
以前、あるマスコミが行った「21世紀に残したい本」の投票でダントツの1位になったとか。組織論・リーダーシップの面で参考になると、ビジネスマン必読の書としても高く評価されており、知る人ぞ知る司馬文学の最高峰の一つです。
近代日本の勃興期である「明治」という時代に生きた、四国・松山出身の3人の若者たち―日露戦争で活躍した秋山好古(よしふる)・真之(さねゆき)兄弟と 日本の近代俳句の父 正岡(まさおか)子規(しき)の、新しい時代を自ら切り開こうとする気概や情熱と、その苦闘の生き様を描いた作品です。
好古は「日本騎兵の父」として知られ、日露戦争ではロシアのコサック騎兵の進撃を阻止することに成功します。一方、真之は、日本連合艦隊司令長官の東郷平八郎に「智謀湧くが如し」と称えられるなど、日本海軍史上きっての戦略家といわれています。日本海海戦では、作戦参謀として東郷元帥に仕え、当時無敵とされ たバルチック艦隊の進路を読み切って日本の大勝利に貢献します。また、その際の「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ各員一層奮励努力セヨ」の号令や「天気晴朗ナレドモ浪高シ」の打電の起草を行ったことも有名で、その文才も高く評価されています。
『坂の上の雲』は、昭和43年4月22日から47年8月4日まで、足かけ5年にわたり「サンケイ新聞」の夕刊に連載されており、司馬氏は準備期間を含めると10年という長い歳月を本作品に費やしています。費やした歳月の長さや文庫本で8巻という大作であるだけでなく、「子規について、ふるくから 関心があった。ある年の夏、かれがうまれた伊予松山のかつての士族町をあるいていたとき、子規と秋山真之が小学校から大学予備門までおなじコースを歩いた 仲間であったことに気づき、ただ子規好きのあまりしらべてみる気になった。小説にかくつもりはなかった」(『坂の上の雲』一巻 あとがきより)といった言葉からも、本作品に対する司馬氏の特別な思いが伝わってきます。
「坂の上の雲」には何度も映画化やテレビ放映の申し出 がありましたが、司馬氏は、本作品で伝えようとしている夢や理想に向かって走り続けた子規など明治の日本人の生き様が、映像ではうまく表現できず、単なる 日露戦史として捉えられることを危惧して、「坂の上の雲」の映像化を固辞していました。ご本人が亡くなられた後も、夫人がその遺志を継がれ、今回のような 博物館への展示を含め、本作品の扱いに対し慎重だったそうです。
松山市の元中村市長は、司馬作品への思い、どのようにまちづくりに活かしていきたいかなどを直接夫人に話され、本作品についての使用の許可を特別にいただいており、そのため、展示内容も司馬氏の伝えようとしていた内容となるよう配慮されています。

まち全体が博物館! フィールドミュージアムは見所満載!

【フィールドミュージアムとは?】

従来の博物館とは異なり、1.まち全体が博物館であること、2.地元住民の協力なしではつくることができないという2つの点において、全国から注目を集めています。
小説ゆかりの地がセンターゾーンとサブセンターゾーンといった複数のゾーンに分かれており、主人公3人の足跡をたどれるようになっています。

1.センターゾーン

(1)松山城周辺
○子規堂
正岡家の住居の一部を正宗寺内に復元したもので、子規幼少時の書斎などがあります。
○秋山兄弟生家
秋山好古・真之兄弟の生誕地の歩行町(かちまち)に復元されています。市民団体が中心となり呼びかけ、全国の約1万人から約1億円の募金が集まりました。そのことからも「坂の上の雲」ファンの多さがうかがえます。

2.サブセンターゾーン

(1)道後温泉エリア
○子規記念博物館
子規の生い立ちやその業績など、子規の生涯をたどることができます。
○明教館
幼少時代の秋山好古が学んだ学校。
○ロシア人墓地
日露戦争時に捕虜となり、松山で亡くなった98人のロシア人が 眠っています。捕虜を厚遇したことがロシアでも知られ、ロシア兵が日本軍に投降する際には「マツヤマ!」(に収容して欲しい)と叫んだという逸話もあるほ ど。実は、当時松山の人口が3万人に対し、ロシア人捕虜は6千人にも及んでいました。彼らは、捕虜と言っても買い物や道後温泉の入浴など外出は自由で、市民と交流する中でロシア文化や技術などを松山の地に伝えたそうです。現在も「ロシア人墓地保存会」が定期的に墓地を清掃しており、この活動がきっかけと なって、保存会とロシアとの交流も行われています。また、この話を伝え聞いたロシアのロシュコフ駐日大使が、「松山露人墓地百年祭」の際に松山を訪問され、百年経てもなお自国民の墓が大切に保存されているのをご覧になって深く感動されたそうです。
(2)松山総合公園エリア
○子規の句碑
明治28年に帰郷した子規が松山の人情と風景を詠んだ、松山市民に最も愛されている句「春や昔十五万石の城下哉」があります。
(3)三津浜・梅津寺エリア
○秋山好古・真之像
それぞれの銅像は、太平洋戦争時に供出されましたが、好古像は昭和45年に、真之像は昭和38年に地元有志により再建されました。真之の銅像の台座には東郷平八郎の「智謀如湧」の揮毫が記されています。

関連記事

ページ先頭へ戻る

検索

カテゴリ

タグ

キーワードを入力してください

  • おもしろデータ
  • へんろ道
  • 四国歴史文化道