さわやかイレブン、やまびこ打線で名を馳せた「池田高校」

長い歴史を持つ高校野球。過去、いくつもの強豪校・人気校がありましたが、徳島県の「池田高校」は、そのなかでも最も強烈な印象を残したチームのひとつではないでしょうか。

池田高校は、徳島県西部の山あい池田町にあります。生徒数約600人、どこにでもあるごく普通の公立高校です。その高校の野球部が、「攻めダルマ」と呼ばれた名将 蔦 文也(つた ふみや) 監督に率いられ、甲子園大会で春夏あわせ3度の優勝をはじめ、輝かしい成績をおさめました。また、池田高校を世に知らしめた「さわやかイレブン」や、代名詞となった「やまびこ打線」、前人未踏の三連覇への挑戦など、出場の度に話題をふりまきました。「ひ~かり~、ひ~かり~、ひ~かりを呼~ば~ん~」のフ レーズが印象的な校歌も、何度も鳴り響きました。

池校野球の特徴は、それまでの強豪校が、バントやスクイズの多用、守備重視など、勝つための緻密な野球を目指す傾向が強かったのに対し、筋力トレーニン グを取り入れ、パワーヒッティングを主体にした豪快なプレーにありました。その姿は多くのファンを魅了し、また、高校野球のあり方にも革命を起こしたよう に思います。記録だけでなく、記憶にも残るチームだと言えるでしょう。

そんな池田高校の、熱闘の歴史をご紹介します。


池田町の花 サギソウ

さわやかイレブン ~ 準優勝の蔦

池田高校の甲子園初出場は、昭和46年夏の大会でした。就任20年目にして、蔦監督の「山あいの子らに1度は大海を見せてやりたい」という願いが叶った のです。しかし、1回戦は浜田高校に5-4と勝利したものの、2回戦で県岐阜商に1-8と大敗、上位進出はなりませんでした。

それから3年後、昭和49年春の大会で、池田高校は一躍全国にその名を知られることとなりました。その時の部員数は、わずか11人。それが試合を重ねる度に勢いづき、遂に決勝戦にまで進出しました。惜しくも強豪の報徳学園に敗れ準優勝に終わりましたが、全員一丸となってプレーする姿は「さわやかイレブン」と呼ばれ、甲子園に旋風を巻き起こしました。

続いて甲子園を湧かせたのは、昭和54年でした。春の大会はベスト8に終わりましたが、この時の東洋大姫路戦、雨が降りしきる泥沼のようなグランドで、2-8の劣勢から9回表に一挙5点を返して追いすがった驚異の粘りは、雨中の激闘として今でも語りぐさとなっています。

そして、この年の夏、並み居る強豪を破り、再び優勝のチャンスが巡って来ます。準決勝では春の準優勝校、牛島(元中日)-ドカベンこと香川(元南海)の バッテリーを擁する浪商学園に2-0と競り勝ち、遂に決勝戦に進出しました。相手は、春夏連覇を目指す箕島高校、後に伝説ともなった星陵との延長18回の激闘を制して決勝に進出していました。池田高校は終盤までリードを保ちながら、8回裏に逆転を許し、惜しくも3-4で敗れました。2度目の決勝進出でも、悲願達成はなりませんでした。

三連覇への挑戦

「準優勝の蔦とは言われたくない」、そんな蔦監督の願いが叶う時は、間もなく訪れました。

昭和57年夏の大会、エースに畠山(元横浜)を擁する強力チームは、緒戦から順調に勝ち進み、準々決勝で、甲子園のアイドル、荒木 大輔(元ヤクルト)の早稲田実業と対戦しました(ちなみに西武の松坂大輔は、彼の父親が、この荒木大輔から名付けたそうです)。実力校同士の対決は「事実上の決勝戦」と言われ、好勝負が期待されましたが、結果は池田の強力打線が爆発。14-2の圧勝となり、甲子園の主役は入れ替わりました。この勢いのまま、決勝戦では広島商業を12-2と圧倒、3度目の挑戦にして悲願の全国制覇を成し遂げました。

この大会、池田の豪打は、打てば響く「やまびこ打線」と名付けられました。金属バットの利点を活かした豪快なフルスイングのスタイルは、ファンを魅了しただけでなく、その後の高校野球の流れを変えることにもなりました。

史上4校目の夏春連覇を目指した翌58年春の大会は、さらに圧巻でした。前回の優勝にも貢献した水野(元巨人)、江上を中心とするチームは、昨夏をも上回る強打で対戦相手を圧倒。準決勝で明徳義塾に2-1と逆転勝ちした以外は、さして苦戦する場面もなく、危なげなく連覇を達成。実力を見せつけました。

そして、前人未踏の三連覇に挑戦した同年夏の大会。打倒池田を目指した強豪校のひしめくこの大会は、空前の盛り上がりを見せました。最大のライバルと思われた中京高校とは、準々決勝で対戦。エース水野は、3回戦の広島商戦で頭部にデッドボールを受けていましたが、強敵相手にそれを感じさせない力投を見せ ました。両横綱が、がっぷり四つに組んだ白熱の一戦は、9回表に劇的なホームランが飛び出し、池田が3-1で勝利。もう、三連覇を阻めるチームはいないように思われました。
しかし、準決勝で思わぬチームが立ちふさがりました。当時1年生だった桑田・清原のKKコンビ(ともに巨人)がいたPL学園です。水野は、清原こそ4三振と封じ込めましたが、桑田にホームランを浴びるなど打ち込まれ、打線も桑田の前に沈黙、0-7で予想外の大敗を喫しました。三連覇の夢が絶たれるとともに、再び甲子園の主役が入れ替わったのです。

蔦監督引退 そして

その後も、池田高校の活躍は続きました。
昭和60年春の大会ではベスト4に進出。そして、昭和61年の同じく春の大会、連覇の頃のような圧倒的な破壊力ではありませんが、投打にバランスのとれ た戦いぶりで着実に勝ち進み、3度目の全国制覇を果たしました。翌62年にも、春の選抜でベスト4に進出し、出れば必ず甲子園を湧かせる強豪校として、確固たる地位を築きました。

しかし、蔦監督も年齢を重ね、次第に衰えました。平成3年夏の大会にも出場を果たしたものの、体調を崩し、甲子園で指揮を執ったのは教え子の岡田代理監督でした。そして、平成4年3月、今後を岡田監督に託し、蔦監督は40年間務めた池田高校野球部の監督を引退しました。その後も野球部顧問として池田高校を見守り続けましたが、平成13年4月28日、肺癌のため、池田町内の病院で亡くなりました。77歳でした。

蔦監督引退後は、平成4年夏の大会のベスト8を最後に、甲子園から遠ざかっています。しかし、池田高校の残した数々の記録や名シーンは、今も私たちの心に深く残っています。ファンは、池田高校が再び甲子園に帰ってくる日を心待ちにしているでしょう。

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